人はなぜ「死」を恐れるのか?【呉智英×加藤博子】
呉智英×加藤博子が語りあう「死と向き合う言葉」
■もう二度と戻れないという怖さ、悲しみ
呉 さまざまな苦痛の延長線上に死があるから死は怖いということは、彼らもわかっている。たとえば、けがをしたり、猟師に撃たれたりして、非常に苦しむ。その先に死がある。だから、それが怖いということはわかるのだけど、死そのものへの恐怖とは違う。やはり人間しかそこのところは理解できていないだろうね。死そのものが怖いということは、自己の一回性、自己の非代替性を自覚しているからだ。ケーガンもこの二つの問題を出しているけど、これが人間の死の恐怖だと思う。
加藤 もう二度と戻れないという怖さ、悲しみですね。
呉 自己の一回性、あるいは非再現性を、恐怖と感じること。これはハラリの本の中にも出てくる「認知革命」に関係している。認知革命という言葉はヨーロッパの哲学者たちの間ではわかりやすいかもしれないが、われわれには、非常にわかりにくい。認知革命は、原語ではコグニティブ・レボリューションという。俺なんか年齢的にもう認知症に近くなってきたけど、日本語では普通何かがわかることを認知という。文字通り、認め知るから認知なんだ。でも、ハラリの言う「認知」は少し意味が違うんだよね。わかりにくいんですよ。
加藤 確かに「認知革命」の「認知」と、「認知症」の「認知」は、違うのに同じ言葉で、ややこしい。
呉 同じ例としては最近、さまざまなところで言われるようになったけど「表象」という言葉がある。何かというと表象、表象です。大学では、表象なんとか学部みたいなのができるくらいになっている。
表象は、原語ではリプレゼンテーション。リ=プレゼントだから、現実にある(プレゼント)ものを、もう一回、頭の中で繰り返すから、リプレゼントなわけだよね。
プレゼントが現存しているものであるとするならば、幽霊を頭の中に描いた場合は、表象なのかという疑問が出てくる。幽霊は存在していないわけだから。もともとプレゼントしていないものだから、表象じゃないということになるんだね。だけど、現在、表象というと、ものを頭の中に思い浮かべるとか、あるいは象徴、シンボルの意味でも表象という言葉は使われていて非常にわかりにくくなっている。
加藤 人は目の前にないもの、非現実のもの、それも見たこともないようなもの、虚構を脳裏に浮かべることができる。それはイメージでもあり、シンボルを成立させる力でもある。それが人間の特質ですよね。
それは、1700年代後半からのドイツの観念論哲学やロマン派でも考えられていて、イマヌエル・カント(1724~1804/哲学者)は、その力を構想力(アインビルドゥングスクラフトEinbildungskraft)と呼びます。ビルト(Bild)は「像、イメージ」で、それを脳裏に浮かべることができる想像力です。創造力とも書くこともあるし、私は幻創力と捉えています。幻をも像として支え得る不思議な力。